【音楽小説】狂う春

高嶺理想 OFFICIAL HP

2026/02/26 00:00

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あらすじ

 

夜の街で働く"私"はお店の客として出会った"彼"の優しさに身を預けながら日々を過ごしていた。誰かに求められても、生活が豊かになっても、いつまでも消えない喪失感の最中、ホテルの装花に訪れていた花屋の男性に出会う。

「幸せって何だと思いますか?」

そんな言葉を投げかけ、私はその答えに懐かしさを覚える。これは"私"が間違った春から抜け出すまでの物語。

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小説本編

 

 まだ朝日も昇り切っていない明け方、繁華街の一角にある公園で私は人を待っている。スマートフォンに映る今朝更新されたばかりのニュースを見つめながら、時折、鼠色に染まった空を漠然と見上げ、昨晩の出来事を振り返る。私に降りかかる理不尽も、全てお金の為だと思えば、溢れそうになる不満さえ飲み込めた。眼前に佇む花屋を見つめながら私は自分という「花」の価値について、自らに問いかけていた。
 イヤホンを付けようとした手が片耳付け終わったところで止まり、ゆっくりと外した。きっと今は音楽を聴くよりも街の音を聴くことの方が私にとって健全だと思った。
 こういう仕事をしていると常々疑問に思うことがある。人は自分の話を聞いてもらう為に、はたまた寂しい時間を埋める為に何故お金を払うのだろうかと。自分にはこれっぽっちも理解に辿り着けない感覚を思考し、反芻する。全てがそう当てはまるわけではないが、あくまでも放った言葉の多くが演技というベールを纏っている以上、これは本音ではなく建前の一種なのだと。それを分かっていて、そこにお金が発生してビジネスが成り立つ。お酒の原価は決まっていてもコミュニケーションの原価は測れない。演者に付いた価値の事を考え始めると、どうにも頭が痛くなる。人間とはやはり、生まれ持ってしまった正常な欲に抗えない生き物なのだ。そんな堂々巡りの思考を辞めた瞬間、足音が近づき、私の待ち人の姿が視界に入る。
 「お疲れ様」と言い、おもむろに私の手を掴んだ。温もりを感じる。まだ春と呼ぶには冷たい冬の空気の中で私の掌に広がる温もりは、凍てついた感覚を少しだけ正常な状態へと導いてくれる。そして私達は繁華街エリアの角の方へと歩き出した。
 灯っていた数々のネオンサインも消え、昨晩過ごしていた世界とは別物の様な景色が目の前に広がっている。あんなに騒がしかった街が、何事もなかったかの様に黙り込み、ネオンの無い街には人が通らず、まるで存在意義を失ったかのようだった。私たちはそんな街を横目に目的地へと向かっている。そして、街角のバス停から、私達を誘う素敵なバスが出る。

 人間には間違っていると分かっていても、時にどうしようもなく自分に甘くなってしまう瞬間がある、と私は思っている。その正常な欲の果てに在る物は時に快楽であり、承認であり、肥大した孤独だったりする。それは目視もできない程に膨れ上がった欲の塊に成り果てた物だ。私たちはその塊が弾けそうになった時、防衛本能の様にその塊に針を刺し、風船の様に膨れた塊が縮み、潰れていくのを見届ける。風船が突然弾けないよう、自分で針を刺していく。
 バスは走行中の振動を感じさせない程に優しく車道を進んでいく。ただでさえ人通りの少ない海岸通りで、海沿いの美しい朝焼けが視界に広がる早朝。後続車も対向車もほとんど見かけないまま、シートベルトさえ要らない程に優しく、バスは私達を運んでいく。夕日が沈みゆくのを眺めるのももちろん好きだが、それと同じか、あるいはそれ以上に明け方の優しく焼ける海を見るのも好きだ。夕日は私にとって仕事へと心を備える合図だ。私は夜の始まりより、夜の終わりに浮かぶ茜を見つめていたい。
 バスは目的地へと辿り着き、彼の差し出した手のひらを支えに、私はバスを降りた。彼の左手の指輪が朝日を反射している。慣れた足取りで入口を通り抜け、私達はフロントへと向かう。耳をすませば時折、波の音が聞こえる。そこに煌びやかに奏でられるギターの音色が上乗せされる。淡く広がる電子ピアノの音も聴こえるだろうか、環境音さえ計算に入れているような相性の良いBGMが室内に響いていた。
 エレベーターを使い、籠模様にエンボスした壁が先まで見える廊下を歩いて302号室へと辿り着いた。彼は扉を開き、明かりを点けてから靴を脱いだ。そして二人分の室内スリッパを用意して、部屋の奥にあるテーブルの上に荷物を置いた。一息ついて、彼は私の方へと歩み寄り、優しく私を抱き締める。ここまでが、私と彼のこの空間でのルーティーンだった。そしてお互いにゆっくりと息を吸い込み、力を逃すように吐き出す。ルーティーンが終わると彼は私の顔を覗き込み、微笑んだ後に部屋のカーテンを広げに向かった。室内の電気の強さをゆっくりと弱めた、まだ優しさを保った朝日が二人の部屋へと染み込んだ。

 彼は次に浴室へと向かい、蛇口を捻る。三十秒程水を出して、出した水が流れゆくのを待つ。ハンドルを回してシャワーで浴槽の壁を洗い流す。そして全ての水が流れ落ちて浴槽の栓を締める。広い浴槽の中に透明な水が溜まっていく。彼の頭の中のチェックボックスに一つ一つチェックマークが付いていくのが分かる。優しさの様に見える行動の先に、彼の譲れない信念のような物を感じる。私がお姫様であれば、きっとこのエスコートにも尊さを感じられるのだろうなと、私はこの状況を俯瞰して見つめていた。
 水が溜まりきるまで、私は窓から景色を見ていた。建物は筒状になっていて、建物の真ん中にできた空間、その1階の庭にはテントの付いた温水プールがある。ビニールハウスの様な仕様で外からは中が滲んで見えない。一組専用の施設でフロントに言って空いていれば利用が出来るらしい。私達も一度使った事があるが、これといった遊具もないのでその時は2人ともすぐにやめて部屋に戻ってきた。窓の外を眺めているうちに、浴室から蛇口を閉める音がして、彼が浴室から姿を現した。

「ゆっくり浸かっておいで」

彼はそう言うと私の頭を優しく撫でた。私が「ありがとう」と言うと、彼は得意げに口角を上げた。煙草の臭いのまとわりついた服を脱ぎ捨て、ポーチの中を探ってクレンジングを手に取り、化粧を落とす。鏡に映った自分の表情がやけに痛々しく映った。シャワーのハンドルを回し、髪の毛が濡れて、次第に顔へと水が伝っていく。自分の社会的価値を考える。世間的に見ても褒められた仕事ではない。洗い流しても一晩で瞬く間に汚れ直ってしまう私の身体と心を、丁寧に洗い流す。私はこの時間が嫌いではなかった。

 バスローブに着替え、部屋に戻ると彼が入れ替わりで浴室へと向かう。部屋に置いていた荷物はそれぞれの物が分かるように分けて並べられ、開けっ広げだったカーテンは綺麗に束ねられている。そして彼は私が入浴に掛けた時間の十分の一程度の速さで浴室を出てくると、ベッドの上に腰を掛けた私の方へと足を運び、ドライヤーで髪の毛を乾かし始めた。愛情紛いの優しさで、この時間は成立している。髪を細部まで乾かし終わると、彼はドライヤーのコードを丁寧に括り、元々あった場所へとドライヤーを戻す。そして、柔らかい布団へと腰を掛け、私を布団へと優しく押して、一緒に倒れ込む。完璧主義者の彼が示す準備完了の合図だった。

 見慣れた天井を見つめる。主張の強くないタッチで上下逆さの人魚が向かい合っているイラストが描かれていて、私の視界は揺れながらもそのイラストを目で捉えている。昨晩の濃度から少しだけ薄くなった濃度の演技。相手が求めている事を感じ取るという意味では延長線上に存在する類似的な行為が発生する中で、私がここに性懲りも無く何度も訪れているという事実は、この時間を少しでも欲しているという事の何よりもの証明である。早く終わって欲しいと願う自分と、この温もりが離れてしまう事に一抹の寂しさを抱く自分がせめぎ合っている。次第に情事が分かりやすく終わりを迎え、彼の腕が私の身体を包み込む。この時間が、この明け方のルーティンの中で一番楽な時間だった。顔を見られずに済んで、それでいて温もりだけは必然として与えられる。腕の中で眠るフリをしていると彼が徐に口を開いた。

「誰かの事を好きになったりしないの?」

私はその問いに答えるか迷った末、眠ったフリをやめて口を開く。

「いつも好きって言ってるよ?」

「そうだね」

部屋にまた、静寂が広がる。毎週日曜日の明け方、指輪の光る掌で私をこんな海沿いへと連れ出すオープンマリッジという歪な関係の名称。精神的に独立した自由な愛の追求、という名前の不完全な愛情の成れの果て。言い訳の塊みたいな説明文に、私は興味がない。

「少なくとも君は望んでここへ来ているんだよね?なら、この関係の先に何を望んでいるの?」

脳の構造上の差異だと私はどこかで聞いたことがある。結果を求めたがる人間と感情を優先する人間が存在していて、その差異の上で、やはり人間は心から分かり合えることはないのだと。だから人間は違える。どうせ、人とは他人なのだから。

「好きだよ、私の身近にいる人間の中で、一番魅力的な男性」

おそらく今の言葉の中に私の本音はほとんど混じってなくて、この場を凌ぐ為の軽口であることは彼も分かっていると思う。法律上、罪を重ねているのか重ねていないのか、この条件下では皆目見当もつかないけれど、どうか心だけは元あるはずの場所へ戻って欲しい。私が彼のことを良いように使っているみたいに、彼も私の事を良いように使って欲しい。他の誰かと作り上げたパズルの最後のピースを埋めるだけの存在で良い。どうか、そのパズルに描かれた幸せは私以外の誰かとの作品であって欲しい。

「僕だったら君を幸せにできると思うよ。全く売れていない頃から、僕だけは君の魅力に気づいて、信じていた。どんなに無愛想だって、不器用だって、僕は君に優しく微笑みかけてきた。別に家庭があるわけでもないのに、どうして、僕じゃ駄目なの?」

普段から温厚で、お店でも、二人きりでも、どんな粗相があっても、声一つ荒げる事のない、本当に良く出来た人。でも、彼は私の幸せがどんな形をしているのか、知っているのだろうか。少なくとも私は現状で自分が幸せになるだろうという道筋も、自分の幸せがどんなものなのかも説明できない。きっと彼が結婚を決意した時に描いた幸せの結末がこれなら、彼もまた、本当の幸せを見つけきれていないはずだ。私の返事を待つ、彼の視線が揺れている。

「私は十分、幸せだよ」

その後に続く言葉を隠した。これ以上、彼を刺激しない様に。少し経てばまた、元通りの関係に戻るだろうか。

「シャワー浴びてくるね」

彼は何も言わなかった。

 シャワーの音だけが響く浴室。私はさっきまでの出来事を反芻している。彼の事は嫌いではないし、むしろ一緒に居れば、ある程度の纏まった生活と落ち着いた感情が手に入って、人肌で私を心ごと包み込んでくれる。でも、彼と過ごした時間では私の心に空いた穴はこれっぽっちも塞がらなかった。あの冬から、心の全てを失った二年前の冬から、私に正当な春は訪れない。私を抱きしめる彼の先に、私は”貴方”を見ている。さっきまで一緒に居たはずなのに、彼の顔なんてシャワー一つで洗い流せてしまうのだから。

 シャワーを浴び終わり、畳まれた服の中から昨日着ていたワンピースを着て、財布をバッグから取り出した。

「少し外の空気を浴びて来てもいい?」

私は彼に会わせる顔がないと思い、逃げるように部屋を出た。彼から引き止められるかと思ったが、幸い後を追う足跡は聞こえなかった。エレベーターの鏡に映る自分の姿はやけに見窄らしく見えた。あんなに煌びやかなドレスを着飾っても、どんなに人の心を読んで接客を重ねても、その鎧を脱いでしまえば、人生という迷路に迷い込んだ一人の女だった。

 無人のフロントに行くと、何やら物音がするので私はその物音に誘われるようにそちらへ視線を移した。硬いハサミのような音がして、茶色いエプロンを付けた男性が何やら作業をしている。フロントの花の装飾を生けていた。こういった施設の中で確かにこの時間は人の行き来が比較的少なく済むので作業をするには最適である。私はその作業をしている姿を凝視した。たまたま目に止まった芸術品に目を奪われるような、そんな感覚なのだろうか。はたまた何かを思い返しているようにも思えた。数秒見つめて、男性がこちらに気づいて目が合うと、申し訳なさそうにこちらへと会釈をする。私はふと自分が化粧を落としていることを思い出し、俯きながら会釈を返した。男性は会釈を終えると、少しだけこちらを見つめた後、すぐ作業へと戻った。
 私は自動販売機で飲み物を買うと、近くのソファへと腰を掛け、男性の作業を見つめていた。いくつか名前の分かる花を見つけると私は心の中でそれを口ずさむ。一本、また一本と新しい花を見る度に心なしか心が躍った。まだ小さい子供の頃、庭先に植えられた花を見ながら、近所の散歩道に咲いた花を見ながら、よく通った花屋で花を見ながら、花の名前を覚えた、大切な記憶。そして、その記憶の中で私の隣には必ず、貴方が居た。

 白く丸い花を手に取った男性の姿を見て、私は何を思ったのか、離れたソファから男性に向けて咄嗟に言葉を放った。

「幸せって何だと思いますか」

男性はこちらを向いて作業を止める。唐突すぎる行動に私は自分でも驚き、慌てて手で口を塞いだ。それでも、男性は驚きの表情を浮かべていなかった。沈黙が訪れ、私は自分の行動を詫びようと言葉を用意したが、彼がそれを遮るように口を開いた。

「それは、私にも分かりません」

当たり前の回答だ。むしろ、真っ当な意見をくれただけ感謝しなければいけない状況でさえある。私は恥ずかしくなって誤魔化す為の言葉を探していたが、男性は再び口を開いて、言葉を続けた。

「でも、幸せって誰かに与えられるものではないとは思います。あなたが自分で手に入れるものか、或いは…関係の話であれば誰かと一緒に作っていくものなのかなと」

何故かすんなり腑に落ちるような回答だった。私はこの答えを聞いたことがある。私が幸せの意味を考えるよりもずっと前に、私が貰った人生に大きく刺さった指針のような言葉だった。

「”幸せにする”って一見、素敵な言葉のように思えるけど、彼の幸せにとって私は必要ないみたいに思えて、なんだか億劫になるんです。私は”幸せにする”より”一緒に幸せになろう”って言ってくれる方が良い」

 男性はじっと私の話を聞いている。出会ってから今に至るまで少しも変わらない表情の中で、僅かに男性が笑みを浮かべたように思えた。そしてこちらへゆっくりと近づいて来て、エプロンのポケットから何かを取り出した。

「部屋へ戻る時はちゃんと拭いてから戻った方が良いですよ。返さなくて良いので」

その瞬間に私は自分が涙を流していたことに気がついた。ハンカチを私に預け、男性は作業へと戻っていく。“nuit”と小さく刺繍の入ったエプロンが隙間風に靡いている。私は男性の事を呼び止めなかった。またいつか、会える気がしていた。

 エレベーターの鏡に向かい合い、自分の頬を伝う涙を拭いた。何故か心は晴れやかだった。きっともう、ここに来ることはない。私の心に咲いていた花が散ったような感覚だ。まだ春と呼ぶには少し寒く、一人で歩き出せるのか不安に思える。それでも、幸せは自分で見つけるものだと、私はもう分かっているから。
 間違った春の上で、私という花が散った。本当の春を、自分で描くために。

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著者:高嶺 理想

 

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