【音楽小説】matricaria
あらすじ
私がこの店で働き始めて一年が経った。一年前とは異なった春の空気に懐かしさを感じていた頃、私はリクルートスーツを身に纏った一人の女の子に出会う。社会に出たばかりの彼女は、心を置き去りにしたまま毎日を生きていた。
"花は人を幸せにするものではなく、幸せな時間を繋いでくれるもの"
その意味を知った私が、あの日の自分と重なる彼女へ贈った一輪のマトリカリア。これは、小さな花が誰かの明日をそっと繋ぐ、五月の物語。
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小説本編
春の終わり___
並木の下を歩けば、青空を覆うように咲き誇っていた桜の花びらも段々と数を減らし、次第に葉の緑が桜を侵食するように増えて、地面には色彩を失い汚れた桃色が敷き詰められる。この春の中で起こる必然的かつ神秘的ともいえる変化に目を向けることが出来る様になったのが久しぶりの事で、私は穏やかな春の過ごし方に温もりを感じていた。
そして、花屋の繁忙期である母の日の賑わいも忘れつつある五月の中頃、私は彼女に出会う事となった。
花屋までの通勤路に小さな公園がある。クリスマスには中央に聳え立つイチョウの木に飾り付けられたイルミネーションが綺麗で、私も冬の時期はその光景に自然と目を奪われていた。そんな光景とは打って変わって閑散とした公園の屋根付きベンチの上に人影が一つ見える。
元々、街灯の多くない公園の、ましてや屋根の下に人影があることで人物の認識は困難を極めた。ただ、その人影から滲む重たい空気がやけに気になり、私は人影の方へと歩き出していた。
足音に驚いた様に顔をあげた人影の正体は、リクルートスーツを身に纏った女の子だった。艶やかな黒髪を後ろで一つ結び、丁寧に切り揃えられた前髪の隙間から見える容姿は私と同じくらいの年齢に見える。新入社員だろうか、その着こなしからはまだ慣れが感じられず、それとは対照的に醸し出す雰囲気からは深い疲れを感じ取れた。
目が合い、私が脳裏で掛ける言葉を探していると彼女は私の言葉を待たず、力のない声でこう言った。
「大丈夫ですから」
その言葉に裏付けされた感情は、私にも思い当たる節があった。帰る家はあっても帰る居場所がなく、帰ってしまえば、この社会という広く冷たい海で溺れている様な日常が再び動き出してしまう気がして、誰もいない場所に行きたくなる、そんな感覚を覚えた十八歳の春。一人になりたくて、でも独りは嫌だった。彼女が口にした言葉の陰に以前の私を見ているようで、私は声を掛けた。
「少し、珈琲でも飲んでいかない?自分で歩けるなら」
迷惑でもあり、お節介でもあったかもしれない。そう思いながらも私は自分の発言を悔いてはいなかった。彼女は戸惑った表情を見せ、同じ体勢のまま動かなかったが、二十秒程経っただろうか。ゆっくりと頷いてベンチから腰を上げた。彼女が座っていたベンチには黄色の手帳らしき物が落ちていた。
「それ、あなたの?」
私が尋ねると彼女は手帳の方を確認する事もなく、こう返した。
「もう、私のじゃないです」
手帳の隙間からは折れ曲がった幾つかの付箋が見え隠れしている。
「置いて帰るのも良くないから私が持っておくね」
彼女は俯いたまま何も言わなかった。
店までの道中、私は彼女に関する事を一切聞き出さなかった。私から突然声をかけた事ももちろん理由の一つだが、消耗した心は返す言葉を考えることにさえ体力を使うことを、私は知っている。気分が落ちている時、反応一つにさえ、心が引っ掛かる。だから、あらかじめ私は「無理に会話を作らなくていいからね、あと、帰りたくなったら何も言わずに帰っていいから」と告げていた。彼女はお店に着くまでの間、一言も口を開かなかったが、帰る素振りを見せることもなかった。
店先に置かれたやけに低い看板と地面にペイントされた「ENTER」の文字。これは私がお店で働き始めた一年前から見慣れた光景だ。私は店のドアを開き、彼女を招き入れた。
「店長、出勤遅れてすみません。私が彼女に話しかけてしまって」
彼は作業をしていた手を止め、こちらを向いて私と彼女の事をじっと見つめた。彼女の視線が彼の方ではなく、下を向いているのが横目で見ていても分かった。
「僕に何か出来る事ある?」
彼は私の言動に驚くことはなかった。この店ではこういったことは珍しくない。ただ、私が誰かを招き入れたのは初めてだった。その事実が、切り花を整えていた彼の手をほんの一瞬止めた。
彼は作業をしていた台に散らばった切り花の葉を片付けながら、私に問いかける。
「じゃあ、珈琲を淹れてもらえると」
「隅の椅子に座って待ってて」
店長は普段から人の表情をよく観察している。そして、人の感情の波を掴むのが上手い。決して押し付けのない優しさがそこにはある。
店内の隅にテーブルと椅子が置いてある。アレンジメントや花束を作っている間、時間を潰す場所を探したり、立ちっぱなしで待たなくて済むようにする為だ。席に着いた途端、彼女がおもむろに口を開いた。
「あの…私、珈琲が苦手で」
「あ、そうなんだ。じゃあ紅茶とかが良い?」
彼女は私の問いかけに頷こうとする仕草を見せたが、作業台の方から彼が問いかけた。
「珈琲のどんなところが苦手?」
突然話しかけられた彼女は驚いた表情を見せながらも問いに対する答えを考えていた。そしてゆっくりと言葉を続けた。
「苦いところとか、ですかね。仕事でよく上司に缶コーヒーを貰うんですけど、元々好きではない状態で毎回飲み干していたら、どんどん苦手になっていって…」
今まで短い言葉でしか反応を示さなかった彼女が見せた初めての自我に、私は心の中で驚いていた。彼は静かに頷き、また口を開いた。
「少しだけ飲んでみてくれないかな。それでも苦手だったら紅茶を淹れるから」
彼女は戸惑いながらも頷いた。
店内には珈琲の香りが広がっている。そこに様々な花の香りがブレンドされた店内はまるで一つのフレグランスの様な空間を作り出していた。珈琲の準備が整う間、私が店頭の切り花を補充していると、今まで自分から口を開く事のなかった彼女が私に問いかけた。
「お姉さんはなんで花屋で働いているんですか」
それはどうにも重たい響きだった。よくある座談会や知人友人との会話の中で聞かれるような単純な疑問とは違う、答えを試されているような、そしてどこか私が答えられないのを期待しているような、そんな言葉の質だった。ただ、答えは飾るべきではないという直感だけが、私の口を動かした。
「私ね、元々キャバクラで働いてたの。高校を卒業できなかった私を雇ってくれる場所なんて、ほとんどなくて。高校に通っていた頃まではやりたい事があったんだけど、それを一緒にやろうって言ってた人が私の前から突然、居なくなっちゃって。その時、気づいたの。私がやりたかった事って、その人が居たから夢になっていただけだったんだって。それからは何を見ても何をしても心が動かなくて。ただ同じ毎日を過ごして、お金を稼いで、心をただ消費して。それだけの人生だった。でも一年前くらいかな、店長に出会って、少しだけ変わった。花って、人を幸せにするものだと思ってた。でも店長を見ていたら、花は幸せを作るんじゃなくて、幸せな時間を繋いでくれるものなんだって思えたの。今まで何にも興味を持てなかった人生で初めて、やりたい事が出来た。私は誰かの幸せを保てる花屋になりたい。幸せに出来るなんて大それた事は言わない。幸せが続くように、私は花を結う。そんなフローリストに今はなりたい」
気づけば私は、今まで誰にも話したことのないことを彼女に話していた。少し一方的に話しすぎたかと不安になったが、彼女の表情を見て、その心は出会った当初より近い場所にあるように見えた。
「私は空っぽで何も見つけられていないままだ」
彼女がそんな言葉を呟いたと同時に作業場の方から足音が近づいてきた。
「珈琲、苦手かもしれないけど少し飲んでみて」
珈琲に映った自分の表情と睨めっこをしているように彼女は一点を見つめ、珈琲に口を付けた。その瞬間、彼女の浮かない表情に光が差した様に見えた。
「苦くない…飲みやすい」
彼女は一口、また一口と時間をかけて珈琲を味わっている。
「珈琲って一括りに苦いと思われがちだけど、淹れ方でも、豆でも、環境でも味が変わる」
彼女は焦点の合わない瞳で一点を見つめている。
「人も少し、似ているように思う」
彼は誰かに向けていないかの様に言葉を落としていく。そして次第に彼女の表情が崩れ、コップを持つ手が少し震えた。彼女は俯いて、ゆっくりと口を開いた。
「新卒で会社に入って、最初は良かった。新しい環境で皆が歓迎してくれて、何を間違っても許してくれて。でも、そんな日々は一瞬で過ぎ去って、働くのが当たり前になって、周りに合わせるのが当たり前になって、大学時代の私にとっての当たり前の自由は当たり前じゃなくなった。こんな時間が、私がおばあちゃんになるまでずっと続くんだって思った時、どこか遠くへ逃げ出したくなった。周りに頼れる友達も居なくて、同じ部署には年上のおじさんしか居なくて、就職で離れてしまった彼氏とは連絡を取る余裕もなくて…休みも合わなくて、いよいよどっか行っちゃった」
涙交じりの声が店内に響く。
「唯一合ったのは、電話越しに聞こえる溜め息をするタイミングくらい」
呆れ笑いを浮かべる彼女の姿がやけに痛々しい。静まり返った店内に鼻を啜る音だけが小さく響く中、彼はゆっくりと店先へ移動し、入り口に掛かった「OPEN」の看板を裏返した。
「私、ずっとこんなふうに生きていくのかな…」
彼女は昔の私に似ている。
「ボロボロになった心と身体で会社を出て、スーパーの閉まった街を見渡して、家に行き着いて、また、死に戻ったように同じ朝が来る」
俯く彼女の姿が、あの日の私と重なった___
私は切り花の並ぶ中央のテーブルへと歩み寄り、一輪の花を手に取った。そして彼女の目の前に勢いよく差し出して見せた。彼女は驚いた表情でこちらを見つめている。
「あげる」
彼女の驚いた表情は変わらない。むしろ今までの泣き顔が一転して、次第に怪訝な表情に変わっていき、私の手を押しのけた。
「こんなので私が喜ぶと思ったんですか!こんな花一つもらっても嬉しくないし、何も状況は変わらない」
「__変わらないよ」
私は食い気味に言葉を返した。
「変わらないよ。人も環境も世界も、あなたの為に変わったりはしない」
私は彼女の瞳をじっと見つめた。彼女は目を逸らす事も忘れたように私を見つめ返した。
「だから明日も明後日も、きっと辛いと思う。でも、あなただけじゃない。私だって辛かった。あなたと私以外にも、明日が来なければ良いのにって思っている人はたくさん居ると思う」
「だからね…」と私は静かに呟き、彼女の頭を撫でた。
「明日また辛くなったらここにおいで。明後日また辛かったら、一緒に珈琲を飲もう。眠れない夜は眠くなるまで話をしよう。そして、あなたの新しい当たり前をゆっくり育てたらいい」
彼女はまた俯いた。しかし、その肩はさっきまでとは違う震え方をしていた。次の瞬間、堪えていたものが一気に弾けた子供のように、彼女は声をあげて泣いた。
彼女は珈琲を飲み終えると、彼と私にお礼を言い、店を後にしようとした。私は慌てて、彼女へ渡すものを取りに行った。
「はい、これ」
彼女が公園のベンチに置き忘れようとしていた手帳には、よく見ると名前らしき文字が刻印されていた。
「本当は大切な物だったんでしょ?」
彼女は手渡された手帳を大切そうに体に引き寄せ、ゆっくりと頷いた。
「大切すぎて。大切だった分、見るのが辛くなってた」
優しい微笑みを浮かべ、彼女は言葉を続けた。
「大学の友達とか、彼氏と離れる事になった時、この手帳を彼氏と一緒に買ったの。幸せだった事を書き残す手帳。幸せと思えた瞬間を思い出せるように。次会った時に、思い出話で二人の時間がいっぱいになるように、って」
「また、書いてみようかな。些細な事で良いから」
彼女の胸には、私があげた白い小さな花と手帳が抱えられていた。
彼女が店を出た後、彼は私に尋ねた。
「なんでマトリカリアを選んだの?」
「なんででしょう」
彼は私の誘いに乗らないと言いたげな表情で距離を取ろうとしたので、私は続けて口を開いた。
「小さい頃、泣き虫だった私に花をくれた人がいたの。私が何かに悩んでいる時、嫌なことがあって泣いている時、その人はいつも私の目の前に勢いよく、マトリカリアを差し出した。びっくりした私の涙はピタッと止まって、それを見て嬉しそうに微笑むその人につられて、私も笑顔になった」
子供の頃の記憶が蘇る。ひだまりの様なその子の笑顔が脳裏に浮かぶ。
「私がなんでマトリカリアなの?ってその人に聞いたら、風に揺れている花が笑顔みたいだからって」
彼は微笑みながら私の話を聞いている。
「だから、私も彼女にマトリカリアを渡したんだけどな」
私は誤魔化し笑いをして、続けた。
「あの人みたいにはなかなか上手くいかないね」
そう言った私を見て、彼は首を横に振る。
「そうでもないさ」
彼は店の外へ視線を向けた。
「彼女、君が渡した花も手帳も、大事そうに抱えていたよ」
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著者:高嶺 理想
